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日本の閉鎖性

Hall, Ivan P.  1998.

Cartels of the Mind: Japan's Intelectual Closed Shop.

W・W・Norton & Company.

 本書の著者Ivan P. Hall氏は、私の大学時代の恩師の1人である。彼は日本語に堪能で、
学位論文のテーマは森有礼であったと記憶している。30年にわたって日本に在住し、現在
もなお東京に住んでおられるようだ。また彼は中央公論における日本の知識人批判(カレ
ル・ヴァン・ウォルフレンのThe Enigma of Japanese Power『日本権力構造の謎』の出
版に端を発する)においても、「日本の知識人よ、もっと勇気を」という論稿を発表し、
ウォルフレン擁護の論陣を張った人物でもある。
 知日派の彼が、日本の知識人の閉鎖性を訴える本書を著したことをわれわれはどう受け
とめるべきだろうか。知識人集団の末席を汚している不肖の弟子の一人として、彼の問題
提起を受けとめ、考察してみたい。がその前に、まず本書の内容を簡単に紹介する。
 まず序章"NORMAL COUNTRY" Foreign Intellectuals Need Not Applyにおいては、近
年の日本において「国際化」「普通の国」などのうたい文句があるが、intellectual
levelにおける相互性(reciprocity)が貫徹していないことを主張する。そのような主
張がホール氏に限定されたものでないことを示すために、源氏物語の英訳で有名なエドワ
ード・サイデンステッカー氏の日本人論(『この国日本』講談社、1984年)を引用してい
る。サイデンステッカーは、日本人は際限なく排他的 (clannish) で狭量 (insular) で
偏狭(parochial) で、島国根性のもとで無法を保護さえしていると批判している。ホール
氏自身も日本人(特にintelectuals(知識人階層))の狭量さ(insular mentality)と
いう言葉を、序章の第2パラグラフで使っている。第1章以下はいわばその論拠の提示で
ある。
 以後の章では弁護士(第1章)、ジャーナリズム(第2章)、大学(第3、4章)、言
論への圧力(第5章)などがとりあげられる。いずれも基本的には日本人が海外で享受し
ている自由を、日本は外国人に対して与えないことの批判である。
 そして結論部において彼は日本の閉鎖性に対して、アメリカがとるべき政策を提言して
いる(pp.182-4)。それらは
 1.法曹界、メディア界、学界におけるアメリカの国家的規模の結社が統一戦線を組ん
   で、日本に対して同等のアクセスを求めるように圧力をかけること
 2.研究・教育分野に関しては、ハイレベルかつ多角的な外交圧力の継続によって、文
   部省の干渉を排除すること
 (3、4、5は略)
 6.最終的には、日本の経済や社会の開放の代替として、東アジアにおける大規模な軍
   事貢献を求め、うけいれること
などである。
 一見してわかるように以上の主張はいわゆる修正主義(レヴィジョニズムrevisionism)
といわれる論調に分類される。この種の主張が多くの日本研究者(Japanologist)によっ
て80年代後半から90年代前半になされたが、日本経済の停滞にともないこの種の論調
は急速に論壇から姿を消した。 しかしながら日本経済が復調すれば、また復活してくる
可能性も否定できない。

 彼はジャーナリストとして、あるいは大学教授として日本で活動していた経験もあり、
その際に感じた憤りが本書において表明されている。そしてその憤りは、単に感情的な
ものとして退けられる性質のものとは、少なくとも私は思わない。たとえば本書第3章にお
いて紹介されている筑波大学における外国人教員の任用問題については、この問題がま
さに公になっていたころ、私は筑波大学の学生であった。記者クラブの閉鎖性批判につ
いても異論はない。もちろん彼の議論の細部について、批判することも可能だろう。しかし
重要なことは、日本通といっていい彼がこのような手厳しい批判の書を書くということ、そし
てそのような現象は彼に留まらず、知日派であるからこそ手厳しい批判がなされること、そ
してその批判が別の知日派外国人にも共有されている可能性が高 いことを、われわれが
どう受けとめるべきなのかということである。日本滞在が長く、日本語にも堪能な外国人が
日本に対して厳しい評価を下すということは、文化摩擦によって生じた言いがかりのように
扱うのではなく、日本(人)が切実に受けとめなければならな い問題と私には思われる。
 本書の基本メッセージは、「日本人のインテリは外国人に対してきわめて閉鎖的である。
だから圧力をかけて開放させるべきだ。」という点につきる。このメッセージに対してわ
れわれ日本人はどう対応すべきなのだろう。われわれ日本人とここで述べたが、実は日本
の国益というマクロな観点と、個々の日本人ひとりひとりというマイクロ(ミクロ)な観
点からでは答えが異なってくる場合が当然あるだろう。本書の批判は個々の日本人の閉鎖
性を論じているのではない。Intellectualといわれるいわゆる知的エリート層における閉
鎖性を問題にしている。ということは、non-intellectualもしくは特定のイッシューにお
ける非専門家集団(一般国民)にとって、その種の閉鎖性がいかなる意味を持つのかとい
うことと、日本全体の国益にとってそれがどういう影響を持つかということを、個々の問
題に関して分けて考えていく必要があるということになるだろう。その考察の結果、彼の
主張を受け入れたほうが日本人一般にとって有益であるとか、日本の国益に適うというこ
ともありうるとも思われる。ただここでは、彼が提起した個々のイシューについての具体
的な検討については、私にその準備がないので棚上げし、彼の提起した相互性の問題に
限定して考察してみたい。
 

reciprocity? or "Be like us"?

 本書にはおもしろい記述がある。

 "True reciprocity, in other words, means Japanese respect for American
  openness, and American respect for Japanese exclusivity.  The demands
  for intellectual access represent Western Absolutes, a new form of
  cultural imperialism." (p.179)

 これはもちろんホール氏自身の主張ではない。彼が読み取った日本人のホンネ、であ
る。アメリカ社会が開放的なのは、それがアメリカの国益とアメリカ市民の利益に適っ
たものであるからであって、日本社会が相対的に閉鎖的だとしても、それが日本の国益
と日本人の利益や感情に沿ったものであったなら、いいではないか(ホットイテクレ)
という主張である。このような見解は、実は、われわれ日本人の中にかなり深く浸透し
ているように思われる。
 彼が本書の中で指摘する日本の閉鎖性、それは具体的には弁護士活動であったり、
ジャーナリストの世界であったり、研究教育分野であったりする。それらについて、彼が
望むような開放がなされることは、それぞれの分野に既得権を持たない日本人一般にと
っては歓迎すべき方向を多く含んでいる。弁護士サービスは安く受けられたほうがいい
し、ネイティヴ・スピーカーに英語を教わる機会は増えたほうがいい。また、より優秀な大
学教員が参入してくることは、学生にとってもメリットがあるだろう。そしてその 先生が外
国人であれば、より多くのことを学生は学べるかもしれない。そういう潜在的な利益を持
ちながらなお、多くの日本人にとっては、日本ももっと外国人に対して開放的であるべき
だという主張をもろ手を挙げて賛成することは難しいように思われるし、そのような心の動
きが、各分野において具体的な利益をもつ集団にとって都合よく働いて いる可能性があ
る。
 そしてそういう心性は確かに私の中にも存在する。外国人に限らないが、自分と異な
る社会ルールを持つ人間と共存するのは余分なコストがかかる。また日本がアメリカ並
の競争社会になったらしんどくてかなわんな、と思っている日本人は、英語ができて
(といってもどういうレベルを「英語ができる」と表現するかは難しい問題だ)、アメ リカ
に対して通常の日本人以上に親しみを持っている集団(たとえば留学などで長期間
のアメリカ滞在を経験している人々)の中にも存在する。
 アメリカ社会が外国人に対して許容している開放性を他国にも要求するという主張は、
アメリカ人としては至極当然のように思われるが、要求される側としてはそれによって
自分が負担するコストに敏感にならざるを得ない。これは「合理的選択」の問題である。
やめさせるにはそうすることがペイしない状況を作るよりない。そして多分、アメリカ
社会が相対的に開放性が高いのも、それを社会が受け容れているのも、アメリカ人が特
別寛容なのではなくて、「合理的選択」の帰結なのではないか。本書で批判されている
「島国根性」には合理的根拠が存在し、その根拠が存在する以上、日本人の排他性・閉
鎖性が克服されることはないだろう。
 そしてホール氏自身が、日本人の国益をおもんぱかって、利他的に本書のような主張
をしているとは思えない。本書のかなりきつい言葉を多用した日本批判ならびにその政
策提言を読む限り、むしろアメリカで活動する外国人の利益を考慮しているように思わ
れるし、日本人が読むことを想定していないのかな、とさえ思えるほどきつい表現を用
いている。彼の政策提言は完全に日本人の閉鎖性を前提にしてそれを圧力でこじ開ける
北風戦略である。日本人の心を開くことは彼の政策目的にはなく、とにかく結果として
の在日外国人の活動範囲の拡大のみを得ようとしている。そして心を開くことを期待で
きない日本に対して、軍事貢献さえ要求するという彼の提言は、基本的に日本は力によ
っていうことをきかせるものだという彼の基本スタンスをさらに強調しているように映る。
このような彼の態度に対して、対応を硬化させる日本人は少なくないだろう。「結局は
力で外国をいいようにしようとしている」と。世界的に存在する反米感情の多くはここ
に起因するとさえ思われるのに。そのような論者によるreciprocityの主張は、"Be like
us"といっているようにしか聞こえなくて当然ではないか。
 もちろん、今の日本は世界的にそれなりのプレゼンス(主として経済的なものだろう
が)を有し、世界中をビジネスの舞台としている。日本人が外国でビジネスを行うのは
いいが、外国人が日本でビジネスをするのは遠慮して欲しいという日本の態度は確かに、
ウォルフレンが指摘したように「世界にあって世界に属さず」というように映って当然
である。
 しかしそのような日本に対する諸外国の政策は、必ずしもホール氏が主張するような
こじあけ戦略に限定されない。現実はむしろ「ジャパン・バッシング(日本叩き)」か
ら「ジャパン・パッシング(日本素通り)」の方で動いているように思われる。日本が
政策を変えるとしたら前者によってではなく、後者によるのではないか。すなわち、声
高な日本批判ではなく、冷徹な政策変化や経済活動の変化のほうが、日本の閉鎖性
を変 える上ではるかに力があるのではないか。
 日本の閉鎖性を変化させようと思えば、閉鎖性を直接声高に非難するよりも、閉鎖性
が再生産されるメカニズムを解明し、そのもとを断つ他に手段はないだろう。その意味
で、本書の主張はルサンチマンによる力わざの印象をぬぐいがたく、その有効性にも疑
義を抱かざるを得ない。
 

われわれの問題としての閉鎖性

 以上のように、本書に対してはやはり強いアメリカニズムとそのスタンダードの強制
を感じざるを得ないのだが、それを批判していればことは足りるのか?と考えるとどう
もそうは思えない。われわれの活動領域はすでに日本という空間をはみ出してしまっ
ている。そして日本語しか知らないこと、日本社会しか知らないことは、われわれにとっ
てはすでにマイナス要因である。われわれのsurvivability向上のために、われわれは
よその社会や文化を学ぶ必要がある。それをしなければ、素通りされるだけのことだろ
う。短期的にはビジネスのためにその種の努力がなされるであろうし、事実なされてい
るだろう。今、世界市場の共通言語は英語になってしまっている。世界市場においてわ
れわれは多くの国の人々と出会い、ビジネスをしている。そこで生き残るためには、や
はり世界を知らなければならないだろう。ではどうやって世界を知ることができるのか?
外国に行くのも1つの選択肢であろう。しかしもし身近に外国人がいたら?外国に行か
なくても彼らから学ぶことができる。
 私が現在住んでいるAnn Arborの公教育には、ESL(English as the Second Language)
というプログラムが存在する。これは英語以外の母国語を持つ人間のために英語教育プ
ログラムであるが、これが小学校、中学校、高校、大学とあらゆるレベルで提供されて
いる。そしてそのESLプログラムの教育理念にははっきりと、多様な背景と文化を持つ
人々が自分たちの社会や教育の場にいることが、アメリカ人の教員や学生にとっても有
益であると謳ってある。このような主張が日本の教育現場において積極的になされる日
はこないのだろうか。だとしたら、日本の教育がアメリカを凌駕することはないだろうし、
日本がアメリカを凌駕することもないだろう。
 外交において日本が独自の世界戦略を持てないのも当然である。世界を知らないの
だから。であれば今現在、力のある国についていくということ以外、選択の余地はない。
しかし現在力のある国が、未来永劫力をもちつづける保証もまたないのである。
 また多様な文化的背景を持つ人間を多く抱える社会は、統合のコストを多く負担する
かもしれないが、同時に多くの社会モデルやアイディアを持つ社会でもあるだろう。ま
たそこで育つ人間は異なる文化にまたがった振る舞いを身につけて社会に出るだろう。
われわれはアメリカのためでなく、在日外国人のためでなく、自分たちの生存可能性を
拡げるために、日本社会を開く必要があるのではないだろうか。今までの日本社会は居
心地のいいゆりかごのようなものだ。今まで安らかな眠りを与えてくれたその場所に、
われわれは強い郷愁を抱かざるを得ない。しかしながらわれわれの体はすでに、そこか
らはみ出してしまっている。そもそも日本というゆりかご自体、明治期以降の歴史的産
物である。そしてわれわれには今の身の丈にあった新しいベッドが必要だ。そしてその
新しいベッドは、異なる文化をもつ人々を友とすることができるものでなくてはならな
いだろう。
 このような変化を促進する最大の要因はおそらく世代交代であろう。外国を訪れる経
験、外国人と交わる経験を今の若い世代は以前よりもはるかにつみやすくなっているし、
事実つんでいる。ホール氏が教育者として日本に播いた種が確実に育っていることを、
私は同級生たちの活動を通じて日々強く実感している。われわれは日本社会と外国人
の関係をどのように構築していくべきかを、自分たちの問題として構想し実現することを
考えなければならない。(11/9/2001)
 
 

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