4月3日(水) 月と専制君主
 
 今朝,来客が帰国.帰途の無事を祈る.玄関前まで送り,朝食をとってから,
Church St. 沿いのビルへ.ここは1階がカフェとコピー屋だが,3階に
Department of Political Scienceが入っている.9時から2時間,J. C. Campbell
教授による日本政治のセミナー.今週はJapanese economic miracleについて,
そして来週は同じく近年のeconomic debacleについて,いずれも指定された文
献を読んで議論する.
 英語での議論についていくのはまだまだ大変で,何が議論されているかわか
っても,そこからすぐに次の思考ステップにいけなかったりする.そこをCampbell
教授に目ざとく気づかれ,"Do you follow our arguments?"と突っ込まれる.
argumentにはついていけても,思考がそこでストップして,すぐにquestionに
対する答えが思い浮かばないことが多い.
 まだまだ思っていることの3割も英語で表現できない.特にやや抽象的だっ
たり理論的だったりする問題については難しい.ただそういうことを自分で意
識せざるを得なくなることはexerciseとしては重要だ.また,日本政治について
まだまだ自分が無知であることを痛感している.文献を読んでいるなかで,日
本に帰ってからの講義に使えそうな材料を発見することもたびたび.そういう
意味で非常に自分にとっては有益なセミナーだ.
 セミナー終了後は日本人の院生や,韓国人のvisiting scholarとランチをとも
にすることも多い.セミナーでのこと,日本の政治についての話題,生活の話
題など楽しい時間が瞬く間に過ぎていく.
 今は子供たちが春休みなので,早めに自宅に戻り,子供と過ごしている.妻
はコミュニティ・カレッジでESLのコースを取っているが,やはり子供の英語習
得の速さにはかなわない.子供たちの新しいものを吸収する速さはただただ
驚異で,少子化社会はだめな理由はこれだなと思う.

 日本ではもう新学期.学生がアクセスするオープンな電子掲示板に目を通
す.どの科目が魅力的か,単位を取りやすいか,どういうことをするのか,どう
いう先生が教えているのかなどの情報が飛び交う.ここでの議論が全ての学
生の意見を代表するものだとは全く思わないが,それなりの本音もあるように
思う.

 大学2年生のとき,ミクロ経済学の勉強会を開いてくれた久保雄志先生が
言っていた.

 「教員を選ぶのは学生の能力だ」

 むろん,選択の基準はいろいろあるだろう.撃墜率が低くラクに単位を稼が
せてくれる教員がいいという場合もあるだろうし,やはり面白くためになる講義
を聴きたいという場合もあるだろう.講義の内容もさりながら教員の魅力が重要
ということだってあるはずだ.そしてこれらの基準が同じ学生の中に同居してい
る場合さえありうる.

 学生による授業評価導入に抵抗や不安を覚える教員が少なくないのは,評
価主体である学生の勉学意欲に疑問符がつくからだ.そもそも授業に出てい
ない学生に授業を評価することはできない.ラクに単位が取れるかどうかしか
考えていない学生がもしいるとしたら,その学生はその科目がラクに単位を取
れる科目かどうかという一点でしか,その科目を評価できないだろう.そのよう
な評価主体による評価を集積したところで,その信頼性は疑わしいと誰もが思
う.
 学生による授業評価の信頼性を高めるための1つの手段としては,評価主
体である学生がそれぞれどれくらい授業に参加しているのかなど学生側の授
業への取り組みを指標化して,ウエイトをかけるという方法がありうる.きちんと
出席して課題などにも取り組んでいる学生の評価を重くし,そうでない学生の
評価は軽くするというわけだ.これが機能するためには,どの学生がどういう
評価を下したかの情報が授業担当教員に少なくとも成績を提出し終わるまで
渡らないことが重要だ.自分の答案を採点する人間が,自分の授業評価を
把握できてしまうのであれば,学生は正直な評価をしにくくなる.
 ただこれは学生による授業評価の信頼性を高めることには役立っても,学
生が授業に取り組む上でのモラールを改善する役には立たない.評価制度
がいくら充実したところで,それによって学生の勉学意欲を喚起できるなどと
考えるべきではない.
 学生の勉学意欲が高まるのは,学問が自分をempowerするものであると感
じられるときだ.具体的な例としては資格関連科目などをあげることができる
だろうが,必ずしもそれに限定されるものでもない.魅力的な教員による魅力
的な授業は学生の勉学意欲を高める.魅力的な本との出会いは人をさらな
る読書へと駆りたてる.資格などに関係ない科目でも,文学であれ哲学であ
れ,それが学生にvitalityを与えるものであるなら,それは学生をempowerす
ることになる.
 たとえば音楽はそれを享受したからといって,飢えた胃袋を満たす役には
立たない.映画も絵画も文学もいわゆる文化といわれるものは,みなそうだ.
しかしそれでもこれらの文化が存在しつづけているのは,それが人間に生き
る力を与えてくれるからだ.

 そして僕は誰かに生きる力を与えることが出来るのだろうか.

                     (B.G.M. 佐野元春「月と専制君主」)

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